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師匠から聞いた話だ。
大学一回生の春。僕は思いもよらないアウトドアな日々を送っていた。それは僕を連れ回した人が、家でじっとしてられないたちだったからに他ならない。
中でも特に山にはよく入った。うんざりするほど入った。
僕がオカルトに関して師匠と慕ったその人は、なにが楽しいのか行き当たりばったりに山に分け入っては、獣道に埋もれた古い墓を見つけ、手を合わせる、ということをライフワークにしていた。
「千仏供養」と本人は称していたが、初めて聞いた時には言葉の響きからなんだかそわそわしてしまったことを覚えている。
▼続きを読む・・・ ≫
実際は色気もなにもなく、営林所の人のような作業着を着て首に巻いたタオルで汗を拭きながら、彼女は淡々と朽ち果てた墓を探索していった。
僕は線香や落雁、しきびなどをリュックサックに背負い、ていの良い荷物持ちとしてお供をした。
師匠は最低限の地図しか持たず、本当に直感だけで道を選んでいくので何度も遭難しかけたものだった。
三度目の千仏供養ツアーだったと思う。少し遠出をして、聞きなれない名前の山に入った時のことだ。
山肌に打ち捨てられた集落の跡を見つけて。師匠は俄然張り切り始めた。「墓があるはずだ」と言って。
その集落のかつての住民たちの生活範囲を身振り手振りを交えながら想像し、地形を慎重に確認しながら「こっちが匂う」などと呟きつつ山道に分け入り、ある沢のそばにとうとう二基の墓石を発見した。
縁も縁もない人の眠る墓に水を掛け、線香に火をつけ、持参したプラスティックの筒にしきびを挿して、米と落雁を供える。
「天保三年か。江戸時代の後期だな」
手を合わせた後で、師匠は墓石に彫られた文字を観察する。苔が全面を覆っていて、文字が読めるようになるまでに緑色のそれを相当削り取らなくてはならなかった。
「見ろ。端のとこ。欠けてるだろ」
確かに墓石のてっぺんの四隅がそれぞれ砕かれたように欠けている。
「地位や金銭に富んだ人の墓石の欠片をぶっかいて持っていると、賭けごとにご利益があるらしいぞ」
師匠はポシェットから小ぶりなハンマーを取り出してコツコツと、欠けている端をさらに叩きはじめた。
「ここは土台もしっかりしてるし、石も良い物みたいだ。きっと土地の有力者だったんだろう」
「でも、いいんですか」
見ず知らずの人の墓を勝手に叩くなんて。
「有名税みたいなもんだ。あの世には六文しか持って行けないんだから、現世のものは現世に、カエサルのものはカエサルに、だ」
適当なことを言いながら師匠は大胆にもハンマーを振りかぶり、砕けて落剥したものの内、ひときわ大きな欠片を「ほら」と僕にくれた。
気持ちの悪さより好奇心の方が勝って、僕はそれを財布の中に収める。やがて夏を迎える頃にはそんな石で財布がパンパンになろうとは、まだ思ってもいなかった。
「もっと古いのもあるかも」
師匠はその二基の墓を観察した結果、少なくともその先代も負けず劣らずの有力者であり、その墓が近くに残っている可能性があると推測し、再び探索に入った。
しかしこれが頓挫する。
日が暮れかけたころ、沢に向けてかつて地滑りがあったと思われる痕跡を見つけただけで終わった。そこに墓があったかどうかは定かではない。
師匠は悔しそうな顔をして地滑りの跡をじっと見つめていた。
その時だ。僕と師匠の立っている位置のちょうど中間の地面の落ち葉が鈍い音と共にパッと宙に舞った。驚いてそちらを見ると、続けざまに自分の足元にも同じ現象が起きた。
「痛」
師匠が右のこめかみのあたりを手で押さえる。
石だ。石がどこかから飛んできている。気づいてすぐに周囲を見渡すと、果たして犯人はいた。
沢の向こう岸の斜面に猿が一匹座っている。こちらの視線に気づいて、歯茎を剥き出して唸っている。怒っているというより、せせら笑っているような様子だった。
そして地面から手ごろな石や木片を掴むと力任せにこちらに投げつけてくる。遊んでいるというには強烈な威力だ。小さなニホンザルと言っても木から木へ両手だけで移動できる腕力だ。
僕は身の危険を感じて逃げ出そうとした。
しかし師匠は一言「痛いんだけど」と口にすると、次の瞬間、沢へ向かって駆け出した。
「なんだお前はこらぁ」と叫びながら斜面を滑り降り、ズボンが濡れるのも構わずバシャバシャと水をはねながら沢を渡り始める。
止める暇などなかった。
猿のイタズラにブチ切れた師匠が相手を襲撃するという凄い絵面だ。
猿も沢の向こう側の安全地帯から一方的に人間を攻撃しているつもりが一転、身の危険を感じたのか、掴んでいた石を投げ捨てて威嚇するような奇声を発した後、斜面を登って木立の中へ逃げ込んだ。
師匠も負けじと奇声を発しながら沢を渡り切り、斜面を駆け上って木立の中へ飛び込んでいった。
僕は思わずその斜面の上を見上げるが、鬱蒼と茂った木々が小高くどこまでも続いている。猿を追いかけて獣道もない山の奥へ分け入るなんて、正気の沙汰じゃない。
止めるべきだったと思ったがもう遅い。師匠の名前を呼びながら、戻って来るのをただ待っているしかなかった。
猿なんだぜ。猿。
そんなことを呆然と再確認する。素手の人間が山で猿を追いかけるなんてありえないと思った。
それにあんな深い山の道なき道を走るなんて、崖から落ちたり尖った竹を踏み抜いたり、考えるだに恐ろしい危険が満載のはずだった。
自分も沢を渡り、居ても立ってもいられない気持ちでうろうろと周囲を歩き回り続け、小一時間経った頃、ようやくガサガサと斜面の向こうの茂みが動き、師匠が姿を現した。
全身に小枝や葉っぱが絡みついている。
バランスを取りながら斜面を滑り降りる様子を見た瞬間に、僕は「大丈夫ですか」と言いながら近づいていった。
師匠は「逃げられた」と言って顔をしかめている。
何度か転んだのか服は汚れ、顔にも擦り傷の痕があった。しかし右腕を見た時には、思わず「だから言ったのに!」と言ってもいないことを非難しながら駆け寄った。
師匠は暑いからと上着の袖を捲り上げていたのだが、その剥き出しの右腕の肘から下にかけてかなりの血が滴っているのだ。
新しいタオルをリュックサックから取り出してすぐに血を拭き取る。師匠はその血に気づいてもいないような様子で、いきなり手を取った僕を邪険に振り払った。
「なんだおい。大丈夫だよ」
「大丈夫なわけないでしょう」
とにかく傷の様子を確かめようと、もう一度無理やり腕を掴む。
あれ?
傷が……
ない。
顔にもあるような擦り傷くらいしか。
呆然とする。
だったらこの血は?
拭ったタオルにはべっとりと血がついている。見間違いではない。
「大丈夫だって言ってるだろ」
師匠は乱暴に腕を振り払うと捲り上げていた袖を元に戻し、沢を渡り始めた。
僕はしばらくタオルの血と師匠の背中を見比べていたが、やがて「見なかったことにしよう」と結論付けて手の中のタオルを投げ捨てた。考えるだに恐ろしいからだ。
そして「待ってください」とその背中を追いかける。
師匠はまだまだやる気満々で、それから日が完全に暮れるまでにさらに二箇所で墓を発見した。
山歩きに慣れた人の後ろをついて行くだけで僕は息が上がり、「もう帰りましょう」と何度も訴えたが、そんな言葉など無視して「こっちだ」と道なき道を迷わず進まれると、溜め息をつきながら追いすがらざるを得ないのだった。
山道の傍で見つけた最後の墓は墓名もなく、小さめの石を二つ重ねただけのもので、そうと言われなければ気づかなかったに違いない。
師匠は手を合わせたまま呟いた。
「こんな小さなみすぼらしい墓を見るとさ、なんか嬉しくなるな」
「なぜです」
意外な気がした。
「金が無かったのか、縁が無かったのか…… もしかしたら名前も付けられないまま死んだ子どもだったのかも知れない」
「きちんとした墓を建ててもらえなかった人のことが、なぜ嬉しくなるんです」
師匠は静かに顔を上げる。
「それでも、その人がいたという証に、こんな小さな墓が残っている」
苔むした石の台座に線香が二本。煙がゆったりと立ち上っている。師匠は腕を伸ばし、線香に水を掛けた。
「こうして手を合わせる人だって、気まぐれにやってくる」
さあ、帰ろうかと言って立ち上がった。僕も慌ててリュックサックから出したものを片付ける。
帰り道は真っ暗で、持参していた懐中電灯をそれぞれ掲げた。来た時とは違う道だ。師匠は近道のはずだと言う。
足元にも気を付けつつ、師匠の背中を見失わないように見通しの悪い下り坂を慎重に歩いたが、心はさっきの小さな墓に繋ぎ止められていた。
(その人がいたという証か……)
死は死を死なしむ、という言葉がふいに浮かんだ。誰かの詠んだ歌だったか。
人が死ぬということは、その人の心の中に残っているかつて死んだ近しい人々の記憶がもう一度、そして永遠に揮発してしまうということだ、という意味だったと思う。
さっきの墓の主も、きっともうなんの記録にも、そして誰の記憶にも残っていないだろう。
それでも石は残る。
その意味を考えていた。
ぼうっとしていると、師匠の声が遠くから聞こえた。
「おい」
我に返ると、師匠が道の途中で立ち止まり、藪の切れた脇道の方に懐中電灯を向けていた。
「どうしたんです」
横顔が心なしか緊張しているように見える。
「自殺だ」
「えっ」
驚いて駆け寄る。
草が生い茂り、一見しただけは道だと思わないような場所に、誰かが通ったような痕跡が確かにある。
踏まれて倒れた草の向こうに懐中電灯を向ける。師匠と僕の二つの光が交差し、照らし出される先には宙に浮かぶ人影があった。
首吊りだ。
思わず生唾を飲み込む。
窪地の木の下に人がぶらさがっている。
ガサリと音がして、横にいた師匠がそちらに向い動き出す。止める間もなかった。
僕は一瞬怯んだ。ひと気のない夜の山中に、人の形をしたものが人工の明かりに照らされて空中にある、ということがこれほど怖いものだとは。
まだしもぼんやりとした霊体を見てしまったという方がましな気がした。
それでも師匠の背中を追って足を踏み出す。軽い下り坂になっている。青っぽいポロシャツにジーンズという服装がほぼ正面に現れる。その姿が後ろ向きであることに少しホッとした。
さらに坂を下り近づいて行くと、かなり高い位置に足があることに気づく。背伸びをしても靴に手が届かない。
死体のベルトの位置に、張り出した枝が一本。きっとあそこまで木登りをして枝に足をかけた状態から落下したのだろう。
恐れていた匂いはない。春とはいえこの気温の高さだから、二、三日も経っていれば腐敗が進んでいるはずだ。首を吊ってからそれほど時間が経っていないのかも知れない。
だがシャツから出ている手は嫌に白っぽく、血の通った色をしていなかった。
師匠は前に回り込んで、首吊り死体の顔のあたりに懐中電灯を向けている。そして「おお」という短い声を発して気持ち悪そうに後ずさった。
僕は同じことをする気にはなれず、その様子を見ているだけだった。
やがて一頻り死体を観察して満足したのか、師匠は変に弾んだ足取りでその周囲をうろうろと歩き回り始めた。
「下ろしてあげた方がいいでしょうか」
僕はそう言いながらも、あの高さから下ろすのはかなり難しそうだと考えていた。高枝切バサミかなにかでロープを切るしかなさそうだ。
「まあ待てよ」
師匠はなにか良からぬことを企んでいるような口調で、腰に巻いたポシェットの中を探り始めた。
さっきまで見ず知らずの人の小さな墓に手を合わせていた人間と同一人物とは思えない態度だ。この二面性が、らしいといえばらしいのだが。
「お、偉い、自分。持ってきてた」
おもちゃの様な小さなスコップが出てきた。師匠はそれを手に首吊り死体の真下のあたりにしゃがみ込む。
そして右手にスコップを振りかざした状態でくるりと首だけをこちらに向ける。
「面白いことを教えてやろう」
その言葉にぞくりとする。腹の表面を撫でられたような感覚。
ズクッ、と土の上にスコップが振り下ろされる。落ち葉ごと地面が抉られ、立て続けにその先端が土を掘り返していく。
「こんぱくの意味は知っているな」
手を動かしながら師匠が問い掛けてくる。
魂魄? たましいのことか。
確か『魂(こん)』の方が心というか、精神のたましいのことで、『魄(はく)』の方は肉体に宿るたましいのことだったはずだ。
そんなことを言うと、師匠は「まあそんな感じだ」と頷く。
「中国の道教の思想では、魂魄の『魂』は陰陽のうちの陽の気で、天から授かったものだ。そして『魄』の方は陰の気で、地から授かったもの。どちらも人が死んだ後は肉体から離れていく。だけどその向かう先に違いがある」
口を動かしながらも黙々と土を掘り進めている。僕はその姿を、少し離れた場所から懐中電灯で照らしてじっと見ている。師匠の頭上には山あいの深い闇があり、その闇の底から人の足が悪い冗談のようにぶらさがって伸びている。
寒気のする光景だ。
「天から授かった『魂』は、天に帰る。そして地から授かった『魄』は地に帰るとされている。現代の日本人はみんな、人が死んだあとに、たましいが抜け出て天へ召されていくというテンプレートなイメージを持っているな。貧困だ。実に」
なにが言いたいんだろう。ドキドキしてきた。
「別に『人間の死後はこうなる』ってハナシをしたいんじゃないんだ。ただ、経験でな。何度かこういう首吊り死体に出くわしたことがあるんだ。そんな時、いつもある現象が起こるんだよ。それがなんなんだろうと思ってな」
スコップを振る腕が力強くなってきた。
「同じ首吊りでも室内とか、アスファルトやらコンクリの上だと駄目なんだよな。だけどこういう……土の上だと、たいてい出てくるんだ。死体の真下から」
ひゅっ、と息が漏れる。
自分の口から出たのだとしばらくしてから気づく。さっきまで汗にまみれていたのが嘘のように、今は得体の知れない寒気がする。
「お。出たぞ。来てみろ」
師匠がスコップを放り投げ、地面に顔を近づける。
なんだ。なにが土の下にあるというのだ。
動けないでいる僕に、師匠は土の下から掬い上げたなにかを右の手のひらに乗せ、こちらに振り向くや、真っ直ぐに鼻先へつきつけてきた。
茶色っぽい。なにかとろとろとしたもの。指の隙間からそれが糸を引くようにこぼれて落ちていく。
「なんだか分かるか」
口も利けず、小刻みに首を左右に振ることしかできない。
「私にも分からない。でも、首吊り死体の下の地面にはたいていこれがある。これが場所や民族、人種を超えて普遍的に起こる現象ならば、観察されたこれにはなにか意味があるものとして理由付けがされただろうな。……例えば、『魄』は地に帰る、とでも」
とろとろとそれが指の間からしたたり落ちていく。まるで意思を持って手のひらから逃れるように。
「日本でもこいつの話はあるよ。『安斎随筆』だったか、『甲子夜話』だったか…… 首吊り死体の下を掘ったらこういうなんだかよく分からないものが出てくるんだ」
師匠は左目の下をもう片方の手の指で掻く。
嬉しそうだ。尋常な目付きではない。
僕は自分でも奇妙な体験は何度もしたし、怪談話の類はこれでも結構収集したつもりだった。なのにまったく聞いたこともない。想像だにしたことがなかった。首吊り死体の下の地面を掘るなんて。
なぜこの人は、こんなことを知っているんだ。
底知れない思いがして、恐れと畏敬が入り混じったような感情が渦巻く。
「ああ、もう消える」
手のひらに残っていた茶色いものは、すべて逃げるように流れ落ちてしまった。手の下の地面を見ても、落ちたはずのその痕跡は残っていない。どこに消えてしまったのか。
「地面から掘り出すと、あっと言う間に消えるんだ。もう土の下のも全部消えたみたいだ」
師匠はもう一度スコップを手にして土にできた穴の同じ場所に二、三度突き入れたが、やがて首を振った。
「な、面白いだろ」
そう言って師匠が顔を上げた瞬間だ。
強い風が吹いて窪地の周囲の木々を一斉にざわざわと掻き揺らした。思わず首をすくめて天を仰ぐ。
ハッとした。
心臓に楔を打ち込まれたみたいな感覚。
地面に向けている懐中電灯の明かりにぼんやりと照らされて、宙に浮かぶ首吊り死体の足先が見える。
朽ちたようなジーンズと、その下の履き古したスニーカーが先端をこちらに向けている。さっきまで、死体は背中を向けていたはずなのに。
懐中電灯をじわじわと上にあげていくと、死体の不自然に曲がった首と、俯くように垂れた頭がこちらを向いている。
髪がボサボサに伸びていて、真下から覗き込まないと顔は見えない。
風か。風で裏返ったのか。
背筋に冷たいものが走る。
首を吊ったままの身体は、その手足が異様に突っ張った状態で、頭部以外のすべてが真っ直ぐに硬直している。
風でロープが捩れたのなら、また同じように今度は逆方向へ捩れていくはずだ。
そう思いながら息を飲んで見ているが、首吊り死体は垂直に強張ったまま動く気配はなかった。
その動く気配がないことが、なにより恐ろしかった。
僕の感じている恐怖に気づいているのかいないのか、師匠はこちらを向いたまま嬉々とした声を上げる。
「どっちだろうな」
そう言ってニコリと笑う。
どっちって、なんのことだ。天を仰いでいた顔をゆっくりと師匠の方へ向けていく。首の骨の間の油が切れたようにギシギシと軋む。
「誰かが首を吊って死んだから、さっきのへんなものが土の下に現れるのか。それとも……」
師匠はそう言いながら自分の真上を振り仰いだ。そして頭上にある死体の顔のあたりを真っ直ぐに見る。視線を合わせようとするように。
「あれが土の下にあるから、人がここで首を吊るのか」
なあ、どっちだ。
そう言って死体に問い掛ける。
肩が手の届く位置にあれば、親しげに抱いて語り掛けるような声で。
大学一回生の冬。俺は当時参加していた地元系のオカルトフォーラムの集まりに呼ばれた。いや、正確には見逃していたのかそのオフ会の情報を知らず、家でぼーっとしていたところに電話がかかってきたのだ。
「来ないのか」
京介というハンドルネームの先輩からのありがたい呼び出しだった。俺は慌てて身支度をして家を飛び出す。時間は夜八時。向かった先はcoloさんというそのフォーラムの中心的人物のマンションで、これまでも何度か彼女の部屋でオフ会が開かれたことがあった。
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ドアを開けると、もうかなり盛り上がっている空気が押し寄せてくる。
「お、キタ。キタよ。はやく。こい。はーやーく」
みかっちさんという女性がかなりのテンションでこちらに手を振っている。部屋の中にはすでに五人の人間がいて、それぞれジュースをテーブルに並べたり、壁にキラキラしたモールをかけたりしていた。
そしてテーブルの真ん中にはいかにもお誕生日会でございますという風体のケーキが鎮座していて、そのホワイトクリームの表面にはチョコレートソースで「colo」と書いてあるのだ。
なんだ。coloさんの誕生日パーティなのか。いつもは降霊会なんておどろおどろしいことをしているオフ会なのに、今日はずいぶん可愛らしいな。と思ったが、やがてこの人たちを甘く見ていたことを思い知ることになる。
用意されていたローソクがケーキの上に立てられて行くのをcoloさんは一番近い席でじーっと見ている。あいかわらずよく分からない表情だ。嬉しそうにしてればいいのに。
やがてローソクをすべて並べ終え、「じゃあ始めよっか」というみかっちさんの一言で部屋の電気が消された。
暗くなった部屋の中で、真ん中のテーブルのあたりに水滴のような形の光が仄かに揺れている。無意識に数えた。ひとつふたつみっつ……
あれ? 目を擦る。ゆらゆらとしている火の数が、何度数えてもおかしい。十六個しかないのだ。coloさんは同じ大学の三回生で、その誕生日なのだから二十一個より少ないということはないはずだ。
よく見ると真ん中に一つだけ大きなローソクがあるから、もしかしてそれが十歳分とか五歳分なのかも知れないが、それでも数が合わない。五歳分だとしても十五足す五で、二十歳にしかならない。
六歳分? そんな半端な数にするだろうか。
考えていると、歌が始まってしまった。以下、聞いたまま記す。
はっぴですでいつーゆう
はっぴですでいつーゆう
はっぴでーすでいでぃあcoloちゃん
はっぴでーすでいつーゆう
は? なんだそれ。「ハッピー・デス・デイ・トゥー・ユウ」だって?
俺は混乱する。誰かのクスクスという忍び笑いが聞こえる。
「け、消して。coloちゃん。ローソク。消して」
みかっちさんが吹き出しそうになるのをこらえながら言う。
「うん」という声がして、coloさんが真ん中の大きなローソクの火に息を吹きかける。フッと一つの火だけが消える。
わずかな静寂の後、「おめでとー」という声が重なってパチパチという拍手が響いた。そして電気がつけられる。
「デス・デイ、おめでとう。あと十五年!」
みかっちさんがそう言ったあと、お腹を抱えて笑い出した。
ケーキの上には火のついたままのローソクがまだ十五個残っている。なにがなんだか分からない俺は、ずっと硬直していた。
説明を聞くところによると、どうやらこういうことらしい。
coloさんは異常にカンが鋭い女性で、それはほとんど未来予知と言っていいようなレベルに達しているのだが、本人いわく危険度の高い情報ほど基本的には早期に知ることが出来るのだそうだ。
野良猫を撫でようとして引っ掻かれる時には二日前に。カラスに頭を突っつかれるときには三日前に、という具合だ。どうして彼女がカラスに頭を突っつかれなければならないのかよく分からないが、とにかくそういうことらしい。
そんな彼女にとって危険度マックスの情報とは、つまり自分の「死」である。彼女はその日時をすでに知っているというのだ。
それがバース・デイならぬデス・デイであり、今日十六個目のローソクの火が消えたといことは余命があと十六年を切ったということなのだろう。
なぜそんな日を祝うのか理解に苦しむが、親しい友人たちを呼んでデス・デイ・パーティを開くというのが昔からの慣習になっているのだそうだ。
祝えねーよ。
六等分に切り分けられるケーキを見ながら、そう突っ込みたくて仕方がなかった。
デス・デイ・パーティという恐ろしげな名前とは裏腹に楽しく場は進み、coloさんの手料理やケーキで腹を満たしつつ、「わたしも寿命しりたーい」などというみかっちさんの不謹慎な発言に「本当に知りたいの」というcoloさんの静かな答えが返り、
「あ、うそ」と黙り込んだりということもありながら、とうとう宴もたけなわというころになった。
「はい、じゃあこれからゲームをしましょう」
coloさんがそう言って手を叩いた。みんなが注目する。
「えーと。みんな、今日はわたしのデス・デイをお祝いしてくれてありがとう。そのお返しにスリリングなゲームを用意しました。とっても危ないゲームだけど、きっとみんなならクリアできるよ」
みかっちさん、京介さん、沢田さんという女性陣に、俺、山下さんという男性陣の合わせて五人がそれぞれ顔を見合わせる。
「これから問題を出すから良く聞いてね」
俺たちの目の前でcoloさんが白い紙を取り出し、マジックペンで数字を書き始めた。
X=1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+ ……
なんだろう。1の間にマイナスとプラスが交互に入っている単純な数式だ。最後の点々はこれがずっと続くという意味か。
「この永遠に続く数式の解が実は三つあるの。その解Xを三つとも答えてね。ただし、一つでも間違えたらアウト。答えはみんなで相談して代表者が答えてね」
三つ? 三種類も解があるのか? 単純そうに見えて難しい問題なのかも知れない。
数式を覗き込みながらそう考えてると、coloさんがとんでもないことを付け加えた。
「もし答えられなかったら罰ゲームに、さっきみなさんが食べたケーキ。あれに下剤を入れちゃうよ」
はあ? 全員目を剥いた。意味が分からない。もう食べ終わったケーキに今から下剤を?
なんの冗談かと笑おうとした瞬間、以前体験した恐ろしい記憶が蘇ってきた。
種類の違うお札の入った箱を選べというゲームなのだが、coloさんが俺の選択をあらかじめ予知しているというのだ。結局現在進行形の行為が、過去に遡って影響を与えるという事象の不可解さに怖じ気づいた俺は白旗をあげてしまった。
そのゲームと同じ構造だというのか。
もしこの問題を答えられなかったら、その結果を予知した過去のcoloさんがケーキにこっそり下剤を仕込むということか。すでにケーキは食べ終わっているというのに!
味は? 変ではなかったか? 口に残ったケーキの余韻を確かめようとするが、やたらスパイシーだったチキンのおかげで完全に消えてしまっている。
「ちょっと、冗談でしょ。入れたの? 入れなかったの?」とみかっちさんが詰め寄る。他のみんなも真剣な表情に変わった。きっと多かれ少なかれ箱の時の俺と同じような経験をしているのだろう。
「答えたら面白くないじゃない。無理に喋らせようとしたら、失格ね」
ハッとしたようにみかっちさんが手を引く。
なんてこった。とんでもない事態だ。さっきまでの楽しいパーティはどこに行ってしまったのか。当事者のcoloさんは無表情で、なにを考えているのか分からない。
「はい、じゃあ、紙とえんぴつを支給します。頑張ってね」
配られたものを眺めながら、五人は「やるしかないのか」という顔になっていた。
「恨むわよcoloちゃん」というみかっちさんの言葉に、「スリルがあった方が楽しいでしょう」という脳天気な答えが返る。
そしてゲームが始まった。
とりあえず、無限に続くという部分に惑わされてはいけない。式を紙に書き出してからそう考える。単純化するのだ。
高校時代、数学の成績は酷かったが、ここは俺とみかっちさんの現役大学生コンビが頑張るしかない。そう思ってみかっちさんを見ると、沢田さんと二人で「最後がプラス1で終わるのかマイナス1で終わるのか」という論争をしている。いや、終わらないから。
みかっちさんを見限った俺は一人でやるしかないと気合いを入れた。山下さんも一応紙に向かっているが、あまり自信がなさそうだ。京介さんは初めからやる気がなく、煙草を吸いにベランダに出ていってしまった。
とりあえず俺は式を括弧で括り、単純化することにした。そうすると一つめの答えはすぐに見つかった。
X=(1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ ……
X=0 + 0 + 0 + 0 + 0 + 0 + 0 + ……
ゼロを永遠に足し続けるわけだから、Xは0だ。まず一つ。
次は少し難しかった。あれこれいじってみて、ようやくそれらしい形になった。
X=1-(1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+ ……)
X=1-((1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ (1-1)+ ……))
永遠の数式の最後を括弧で閉じるのが少し気になったが、多分これが正解だ。大括弧の中が一つめと同じ形になったので、あとは簡単。
X=1-(0 + 0 + 0 + 0 + 0 + 0 + 0 + ……)
X=1-0
答えはX=1。これで二つめだ。
とんとんと二つめまで辿り着いたので案外簡単じゃないかと安堵したのだが、ここからが難問だった。
どういじっても、どう括弧で括っても一つめか二つめの形の亜種にしかならず、結局0か1かという答えになってしまうのだ。頭がこんがらがってきた俺は、これまでのパターンをみんなに見せて確認してもらった。
「おい、少年。すごいじゃん。さすが学生」とみかっちさんが褒めてくれたが、あなた俺と同じ大学でしょう。それにやってみて思ったが、これは数学というよりパズルだ。
京介さんが戻ってきてから、俺は全員に同意を得て代表としてとりあえずここまでの答えをcoloさんに告げた。
「0と1ね。正解! あと一つ」
「なにかヒントはないですか」と頼んでみたが、「ない」と実につれない。仕方がないので、全員で知恵を寄せ合い、いろいろ考えてみる。しかし括弧での括り方なんてそれほど多くのパターンはなく、似たような形になるばかりで、どうあがいても0か1かになるのだった。
「発想の転換が必要」と宣言して、みかっちさんが書き出した式も結局なにも変わらなかったし、「他二つが0と1なんだから、その前後じゃないか」ということで、「2かマイナス1」という答えが直感派の間で主流になったりしたが、
裏付けが取れないためGOサインが出ないのであった。
発想の転換が必要だ。その言葉を十回くらい聞いたが、なんの足しにもならなかった。書いた紙が散乱し、下剤の恐怖と戦いながら、殺伐とした空気を吸って吐いて俺たちは考え続けた。
ふと顔を上げるとcoloさんが椅子に座ったまま退屈そうに足をぶらぶらしている。まずいな。そろそろ答えないと。
そんな停滞する場を打開し、答えを導き出したのは意外な人物だった。 手持ちぶさたのcoloさんが腕時計を覗き込んだ瞬間だ。
「わかった」
そんな言葉が部屋に響いた。全員の視線が集まる先にはみかっちさんがいた。「うそ」と沢田さんが言ったが、みかっちさんは人差し指を左右に振って「あたし天才かも」と目を瞑る。
「いい? 発想の転換が必要だったのよ。答えから言うわね。意外や意外、三つめのXの正体はに……」
そこまで言い掛けたみかっちさんの口を誰かの手が塞いだ。疾風のように動いた人物は京介さんだった。
「バカ。勝手に答えるな」
真剣な顔でみかっちさんの抵抗を力ずくで抑える。そして矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「解けたぞ。ヒントは時計だ。沢田さん、coloの口を塞げ」
え? とみんな唖然とする中で、沢田さんが条件反射的にcoloさんの口を塞ぎにかかった。「ちょっと、なに」抵抗するcoloさんの手を俺も一緒になって押さえつける。
京介さんの方はみかっちさんが大人しくなったところで手を離し、部屋にあったタオルを手に取ると押さえつけられているcoloさんの口を覆った。猿ぐつわだ。
「ふぁいふぅおぉ」
突然の暴挙にcoloさんが戸惑いながら訴える。
「これは予知してなかったか? 焦点になっている答えに関わる部分以外は捉えられていないようだな。無理に喋らせようとしたら失格だと言ったが、喋らせないのはかまわないはずだ」
京介さんはゆったりした動きでcoloさんの前に両手を組んで立ちはだかった。
「おまえの予知が本物という前提で話す。いいか。問題は、解Xを三つ答えろという内容だ。一つでも間違えたらアウト。つまりさっきこのバカが答えてしまっていたら失格だったということだ。
そしてその結果を予知したおまえは過去のケーキを用意した時点で中に下剤を仕込む。それでこれから私たちは地獄の苦しみという展開だ。行為が終了しているにも関わらず下剤が入っていたかどうか、食べた後にも分からないのがこのゲームのミソなわけだが……」
京介さんはみんなで綺麗に平らげたケーキの空箱を指さす。
「ミスをしたな。おまえはこのゲームの制限時間を決めていない」
俺はその言葉にハッとした。そうだ。その通りだ。
「私たちはこれから、『最後の三つめをなかなか答えない』という行動に出る。するとなにが起こるか。分かるな。下剤が効いてくるはずの時間を超過するんだ。何ごともなくその時間が過ぎたら、下剤は入れられていなかったということ。
もし仮に腹が痛み出したら、下剤は入っていたということになるが、私たちはなにもミスをしていない。間違えてもいない、制限時間もない、無理に喋らせようとしていない。そして、腹が痛み出したら未来永劫、絶対に三つめを誰一人答えないことを宣言する。
にも関わらず下剤を入れていたとしたら、これはアンフェアだ。入れられる理由なんてないのだから、論理によって成り立つゲームの根底を崩してしまう。ここまでは私の理屈だ。だが、おまえは今、『それは確かにアンフェアだ』と思ってしまった」
京介さんの力強い言葉につられ、俺も、他のみんなも頷いてしまった。coloさんは表情を引っ込めて反応もしなかった。
「口を塞がれ、これからルールを追加することも出来ないおまえは、結局下剤を入れられない。こちらの勝ちだ」
見事な勝ち名乗りだった。俺たちは感心して思わず手を叩いた。すごい。これこそが発想の転換だ。coloさんの頭ががっくりと落ちた。観念したらしい。これからなにが起こるか理解できたようだ。
下剤が入っていなかったと俺たちが確信できるまで、拘束されるのだ。筆記等によるルール追加もできないように、部屋にあった布類で縛り上げる。その作業は女性陣が行ったのであるが、なんだかいけないものを見ているような気がしてドキドキする。
椅子に座ったまま身体の自由を奪われたcoloさんの目に涙が浮かんだのが見えた。やばい。可哀想になってきた。自業自得なのに。
「で、下剤ってどのくらいで効くの」
みかっちさんの言葉に部屋の中がシーンとする。
たぶん、四、五時間というファジーなところで意見が落ち着き、念のために六、七時間くらい余裕をみることにし、なんだかんだで結局朝まで宴が開かれることになった。
パーティの主役であるcoloさんの目の前で、俺たちは語り合い笑い合いふざけあい、語り合った。
coloさんにメソメソと泣かれたらどうしようと思ったが、変な格好のままあっさりと本人は寝てしまい、俺たちは心おきなく時間をつぶすことができた。
後から考えると、とっとと解散するとか、「もうやめよう」と言ってcoloさんと休戦条約を締結するとか、下剤の箱やレシートがあるかどうか探すとか色々やり方があったような気もするし、どうしてcoloさんはこの展開を予知できなかったのかとか、
京介さんの未来予知に関する考え方にも多少の疑問点もあったが、その時の俺たちはそういう細かいことを抜きにして楽しい時間を過ごすことに全力を尽くし、変な角度からの青春をとにかく謳歌していたのだった。
この混沌としたデス・デイ・パーティの顛末に付け加えることが一つ。
夜中の十二時を回ろうかというころ、電話が鳴った。携帯ではなく、coloさんの自宅の電話だ。
眠っているcoloさんをちらりと見てから、京介さんが受話器を取る。
「はい」
相手と二こと三こと会話を交わしてから受話器を置く。そしてcoloさんのところへ行って、肩を叩いた。ゆっくりと彼女は目を開く。
「あの変態から電話。『おめでとう』。以上」
そして京介さんはまたみんなの輪に戻っていく。
俺はそのやりとりを見ていて、なんだか不思議な気持ちになった。はっぴですでいつーゆうと言われても、まったく嬉しそうな様子を見せなかったcoloさんが、初めてニコッと笑ったのだ。
また目を瞑り、眠りにつこうとする彼女を見ながら、俺はふと今日はcoloさんの本当の誕生日だったのかも知れない、と思った。
「ちょっと、あたし、合ってたじゃない!」
腹を痛めることもなく無事に迎えた次の朝、coloさんの拘束を解いて解散となったとき、みかっちさんが叫んだ。出題者であるcoloさんから三つめの答えの説明があったのだ。
X=1-(1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+ ……)
このとき、右項の括弧内は最初の式である、
X=1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+1-1+ …… の右項と等しくなるため、
X=1-X
2X=1
X=1/2
となるのだそうだ。ほんとかよ。
「にぶんのいちって、言おうとしたのに。あたし算数得意なんだから」
算数というあたりが信用できなかったが、そういうことにしてあげた。
師匠から聞いた話だ。
大学に入ったばかりの頃、学科のコースの先輩たち主催による新人歓迎会があった。
駅の近くの繁華街で、一次会はしゃぶしゃぶ食べ放題の店。二次会はコースのOBがやっているドイツパブで、僕は黒ビールをしたたかに飲まされた。三次会はどこに行ったか覚えていない。
ふらふらになり、まだ次に行こうと盛り上がっている仲間たちからなんとか逃げおおせた頃には夜の十二時近くになっていただろうか。
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同じようにふらふらと歩いているスーツ姿の男性とそれにしなだれかかるような女性、路上で肩を組んで歌っている大学生と思しき一団、電信柱の根元にしゃがみ込む若者と背中をさする数人の仲間……
そんなごくありふれた繁華街の光景を横目に僕は駅の方角に向って、液体のように形状の定まらない足を叱咤しながら歩いていた。
前掛け姿の店員が看板を片付けている中華料理屋の前にさしかかった時だった。
自分が進んでいる道と垂直に交差する道が視界の前方にあり、その十字路の上を奇妙なものが歩いているのが見えた。
それは街路灯に照らされているわけでもないのに、ほんのりと光を纏っている。人間のようにも見えるが、妙にのっぺりしていて顔があるあたりは眼鼻の区別が定かではない。そういうものが何体も前方の道を右から左へ通り抜けて行く。
この世のものではないということはすぐに直感した。
元々他人より霊感が強く、幽霊の類にはよく遭遇するのであるが、こうして街なかで群をなしているのを見るのは珍しかった。
ゆっくりと十字路に近づいていくと、その歩いてる連中が行列をなして同じ方向へ進んでいるのが分かった。
その数は十や二十ではきかない。無数の人影がぼんやりと繁華街の夜陰に浮かびながら、そろそろと歩いている。
寒気のする光景だった。
「霊道」という言葉が思い浮かんだ。
蟻が仲間のフェロモンをたどって同じ道を列をなして通るように、なにかに導かれて彷徨う霊たちが通る道だ。
こんな繁華街の真っ只中に……
恐る恐る十字路に出て、行列の向かう方向を窺う。
どこまでもずっと続いているような気がしたが、道の向こうに列の先頭らしきものが見えた。
その瞬間だった。列の中からこちらに手を伸ばしてくるやつがいた。
間一髪でその手をかい潜り、距離を取る。
思いもかけない攻撃に、焦って足を挫きかけた。心臓がバクバクしている。
異様に長い白い手が波打つように揺れながら列の中に戻っていく。
周囲の人々は誰もその光景を見ている様子がない。行列を横切ろうとする人はおらず、十字路にさしかかった人も、何気ない歩調で左右に折れていく。
元々そちらに向かう人なのか、それとも無意識に霊道を横切らないように迂回しているのか……
そんな中、彼らの存在が「見えて」いる僕に反応したのだろう。
それでも列から離れてこちらを追いすがってくる様子はない。列に添って進むことは抗いがたい何かを秘めているのか。
体勢を立て直し、道の中心を通る彼らからなるべく離れたままで、その進む方向へ足早に歩を進める。
ぼんやりと光る彼らに横から目をやると、その着ている服がうっすらと見えたり、無表情な横顔や、砕けて開いたままの顎から垂れる血糊、左の肩が落ち込んで鎖骨が覗いている姿などが垣間見えた。
はっきり姿が見えるものや、闇に消え入りそうなものもいて、そんな「見え方」はバラバラで一貫性はなかったがどれも一様に歩を乱さず歩いて行く。
僕は小走りに駆け、ふたブロックほど先でその先頭に追い付いた。
その時に見た光景をなんと表現すればいいのか。
その光景は僕の生涯の中で忘れることのできない輝きを持って、様々な瞬間に幾度となく蘇ることになるのだ。
明かりの落ちた薬局の看板の前で思わず立ち止まり、その横顔に見とれていた。
霊道の一番先端を行くのは女性だった。
白いジャージの上下を着て、ポケットに両手を突っ込み、少し猫背で、睨み上げるように前を見据えて歩いている。
その相貌は怒気を孕んだように白く、眼は……
眼は、そこに映るすべてのものを憎悪し、唾棄し、苛み、そしてそれでいて全く興味を喪失しているような、そんな色をしていた。
苛立ちを撒き散らし、自分を不機嫌にさせたすべてを呪いながら彼女は歩いている。
その後にぼんやりと光る死者の行列が音もなく続く。
僕は息を止めて見つめている。
葬列にも似た荘厳な行進は、夜半を過ぎて狂騒の冷めかけた繁華街の夜の底を行く。
この世のものならぬものたちを従え、そしてそのことに気づいているのかどうかも分からない表情で、振り返りもせずただ前方を睨み据えて彼女は歩き続ける。いったい彼女の何が、まるで誘蛾灯のように彼らを惹きつけるのだろう。
僕はその幻想的な光景に一歩足を踏み出し、通り過ぎようとする彼女に声をかけようとした。
「あの……」
挙げかけた右手が虚空を掻く。彼女は足を止めようともせず、そしてこちらを一瞥もせずに、ただ短く口を開いた。
「後ろに並べ」
そして次の瞬間、彼女は今自分が言葉を発したことさえ忘れたように表情を変えず歩き去ろうとする。
すべてがスローモーションのように映る。
今自分に話しかけたものがこの世のものなのか、そうでないのか、まったく関係がない。そんな声だった。そうした区別もなく、ただどちらにも等しく価値がないと他愛もなく信じているような。
僕はその声に従いそうになる。
深層意識のどこかで、彼女につき従う葬列に混ざり、意識を喪失し、個性を埋没させてただひたすら盲目的について行きたいと、そう思っている。
だが、現実の僕は目の前を通り過ぎていく寒々とした列を呆けたような顔で見送っている。
その時僕は、彼女の横顔に涙が流れていくのを見た。
いや、それは涙ではなかった。左目の下、頬の上あたりに仄かに光る粒子が溢れている。それが風に流れる水滴のようにぽろぽろとこぼれては地面に落ちる前に消えていく。その粒子の跡を追って無数の死者たちが光の帯となって進む。静かな川のようだった。
僕はそれに目を奪われる。その情景に自分の感情を表現するすべを持たない自分がひどくもどかしかった。
気が付くと行列は去り、やがて再び繁華街のざわめきが戻ってきた。さっきまでの異様な空気はもうどこにもない。
何ごともなかったかのように酒気を帯びた人々が道を横断していく。
遠くで客の呼び込みをしている嗄れた声が聞こえる。終わりかけた夜の残滓がアスファルトの表面をゆっくりと流れている。我に返った僕は、棒立ちのまま左目の下に指をやる。
もう一度どこかであの人に会うだろう。
そんな予感がした。
大学二回生の春だった。
休日の昼間に僕と加奈子さんはとある集会所に来ていた。平屋のさほど大きくない建物だ。
バイト先の調査事務所の所長から話を聞きにいくように指示されただけで、なんの準備もなしに渡された地図を頼りにやって来たのだった。
迎えてくれたのは五十年配の女性。玄関から入ってすぐの襖を開けると十畳ほどの日本間があり、そこへ通された。
地区の寄り合いに利用される集会所で、鎌田さんというその女性はそこの鍵を管理しているらしい。その鎌田さんのご主人が地区長をしていて、また彼女自身、地区の婦人会の会長とのことだった。その土地の名主的な家柄ということだろう。
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鎌田さんがほっそりした顔に困惑げな表情を浮かべて切り出したのは、その集会所にまつわるお化けの話だった。
「気持ちの悪い声、ですか」
「ええ」
加奈子さんの言葉に頷きながら、彼女は気味悪そうに視線を部屋の中に彷徨わせる。
思わずその視線を追いかけるが、なにも変わったものは見つからなかった。
話を聞くに、かなり以前からこの集会所の中で誰のものとも知れない声がどこからともなく聞こえてくることがあったそうだ。
昼のさなかであればこそ、夜の集会所ともなれば人ごこちのしない不気味さで、ましてたった一人居残って片付け物をしている時に、誰もいないはずの部屋の中から声がするともなればその恐ろしさいかばかりか、ということらしい。
昔から密かにささやかれていた噂話だったのが、このところのオカルトブームのせいか地区の子どもたちの間でその噂が一人歩きしはじめ、「お化けの声に話しかけられたら返事をしないと殺される」だの、
逆に「返事をしてしまうと床下に引きずり込まれる」だのといった恐ろしげな怪談になってしまい、子ども同士で物陰に隠れて脅かしあいをするのが流行り、気の弱い子が気絶して救急車を呼ぶような騒ぎも起こってしまったとのことだった。
「お寺や神職にお払いをしてもらわなかったんですか」
加奈子さんがそう問うと、鎌田さんは答えにくそうに「あ、ええ」と曖昧な返事をした。
その様子から僕は『お払いをしてもらっても、怪異が終わらなかった』という裏を読み取った。たぶん加奈子さんもそう思っただろう。
そうでもなければ、こんな話が小さな興信所に持ち込まれるわけはない。たとえ『お化け』がらみの依頼をいくつも解決し、業界内では多少名の知れた看板娘がいるにしてもだ。
「その噂はいつごろからあるんです」
「さあ……二十年、いえ、二十五年くらい前だったか、この集会所は一度建て替えをしてまして、その前からあったかどうか」
そう言って鎌田さんは首を捻った。
ということは、はっきり分からないくらい昔からある噂ということか。
「あなた自身はその声を聞いたことがありますか」
ハッと表情を硬くして鎌田さんは曖昧に頷く。
「声だけなんですか。姿を見たという人は?」
「私は……見たことはございませんけれど」
言いよどむ。
見た、という噂は歩いている。そう受け取った。しかし『気持ちの悪い声が聞こえる』という噂がメインであることは間違いないようなので、『なにかを見た』という噂の方は信憑性がさらに低い。
「少し、見させてください」
加奈子さんは立ち上がり、周囲を軽く見回しただけで襖に手を掛けた。
日本間から出ると、真剣な表情で集会所の中を一通り見て回る。もう一回り小さい部屋に、トイレ、台所。祭りで使うような提灯や小道具でいっぱいの物置。
二階もなく、あっという間にもう見るべき場所はなくなってしまった。
ついて回っているあいだ、僕も何か違和感がないかとアンテナを張っていたが、特に感じるものはなかった。
しかし加奈子さんは僕より遥かにそういう違和感を感じ取る能力が高い。畏敬を込めて師匠と呼ぶほどにだ。
その師匠が、難しい顔をして廊下の天井を睨んでいる。一緒にそちらを見上げるが、木目が波打っているだけで何も変なところはない。
どうしました。と言おうとして、手で制された。
「何か聞こえる気がするんだけど、なんとも言えないな」
思わず耳を澄ます。しかし何も聞こえない。
師匠が神経を集中し始めたのが分かる。表情が無くなり、身動きをしなくなる。僕は固唾を飲んでそれを見守る。鎌田さんが後ろで気味悪そうに佇んでいる。
師匠の気配が揺らぐ。ゆらゆらと、まるでそこから消えて行きそうな錯覚。
僕は怖くなって彼女を現実に戻すために肩を叩こうかと逡巡した。
「わかんない」
ふいに彼女が戻ってくる。その声に僕は少しほっとする。
結局怪異に遭遇したという体験談が多い夜まで様子を見ることになった。鎌田さんは半信半疑というか、困ったような顔のまま僕らに鍵を預け、よろしくお願いしますと言いおいて立ち去った。
昼の三時過ぎだった。
今日はこの集会所を使うような予定も特にないらしく、僕と師匠はひっそりとした室内に腰を据えた。
探索もしたばかりだったのでとりあえずすることもなく、玄関からすぐの日本間で古い型のテレビをつけてさほど面白くもない旅番組を見ていた。
「気持ちの悪い声って、なんなんでしょうね」
ぼそりと口にした僕に、座布団を数枚並べてその上に寝転がっていた師匠が顔を上げる。
「お化けだといいな」
お化けだといいですね。
賛同しつつも、自分たち以外のなんの気配も感じないことに疑惑を抱いていた。異常に霊感の強い師匠でさえ、「なんとも言えない」と言っているのだ。
もし何らかの霊的存在が巣食っていたとしても、微弱で矮小なやつに違いない。
噂にあるように「話しかけられたら返事をしないと殺される」だとか、「返事をしてしまうと床下に引きずり込まれる」といった素晴らしい体験は間違いなくできないだろう。
溜め息をついて僕はトイレに立った。
廊下に出る時、ギィ、と床が鳴いて無駄に広い集会所の壁や天井に反響した。防音構造になっているのか、外の音があまり中まで響いてこない。
なるほど、これで中の音がやけに大きく聞こえて、ちょっとした物音でも気になってしまうのか。
トイレから戻り、またテレビの前に寝そべる。
時間だけが過ぎていく。チッチッチッチ…… という壁にかかった時計の音が、テレビが静かになる瞬間にだけやけに大きく響く。
鎌田さんから食べていいと言われていた台所の柏餅を日本間に持ち込んで、自分で淹れたお茶と一緒に口にする。
「うまいな」
うまいですね。
やがて夕暮れがやってきて、小さな窓からも光が失われていく。
知らぬ間にうとうとしていた。
師匠がなにか言った気がした。
畳の跡が頬に張り付き、剥がす時にヒリリとする。半覚醒の頭で、言葉を認識しようとする。
ああ、そうか。
もういいかい。
そう言われたのだ。
身体を起こすと、周囲を見渡す。師匠がテレビの前でうつ伏せになったまま死んだように寝ている。
あれ? 師匠じゃなかったのか。
じゃあ、一体誰が。
そう思った瞬間、もう一度聞こえた。今度ははっきりと。
『もういいかい』
立ち上がって身構える。どこから聞こえた?
分からなかった。ただ、その言葉の余韻が室内から廊下に向けて動き、襖を通り抜けていったのを感じた。
この日本間には僕と師匠しかいない。はずだ。
これか。噂は。
緊張して襖に手をかける。そろそろとずらして、首だけで覗き込む。廊下はすでに暗く、ひっそりと静まり返っている。闇の戸張りの向こうに人の気配はまったく感じない。だからこそ異様な空気がひしひしと伝わってくる。
僕はそっと襖を閉め、室内を振り返る。
師匠はまだ寝ている。膝をついて揺り起こす。
もぞもぞと動いていたが、めんどくさそうな声で「お化け以外見たくない」と呟いたのが聞こえた。
「見えないから問題なんですよ」
僕は白いストレッチパンツのお尻の部分を遠慮なく叩いた。
「ッてぇな!」
師匠が乱暴な口調で起き上がったその瞬間だった。
『もういいかい』
どこからともなくそんな問いかけが降ってきた。思わず二人とも動きが硬直する。視線だけを走らせて室内を観察するが、なにも目に見える異常はない。
なんだ? これからなにが起こる?
ドッドッドッ、という心臓の音を聞きながら考える。
噂ではなんと言っていた? 返事だ。返事はするのが正解か、しないのが正解か。もういいかい、に対してする返事は……
「師匠」
横目で見ると、「黙ってろ」という一言。
緊張しながらもじっとしていると、また得体の知れないその声の余韻が空中に糸を引いたようにすうっ、と動き、今度はテレビのある壁の向こうに消えていった。
壁の向こうは外のはずだ。
はぁっ、と息を吐き、初めて自分が息を止めていたことに気づく。
師匠は間を置かずに走り出した。
廊下に出て、電気を点けて回る。トイレや台所、物置ともう一つの小部屋。すべて一通り探索したが、自分たち以外の第三者はどこにも潜んではいなかった。
玄関に戻ってきてドアを見ると、自分たちで施錠した時のままだった。
腕時計を見ると夜の八時過ぎ。ほんの少しうとうとしたつもりだったのに、こんなに時間が経っている。
「さっきのはなんでしょう」
恐る恐る訊く僕に、師匠はかぶりを振った。
「言葉は発していたが、人間的なものを感じなかった。普通の霊とは違う気がする。かと言って物霊とも……」
僕は『もういいかい』というさっきの言葉の声色を思い出そうとする。
男か、女か。そして若いのか、年寄りなのか。
しかし、駄目だった。空気を振動させて伝わった音ならば記憶の中に確実に残っているはずだが、あの声は直接脳に響いたとでも言うのか、まったく勝手が違った。まるで幻聴を思い出そうとするように、捕らえどころのない感じ。
余計な情報が刻一刻と揮発し、『もういいかい』という言葉の意味だけが純粋に脳裏に刻印されていく。
最後に壁の向こうに余韻が消えていったような気がしたことを思い出し、玄関の扉に目を向ける。
師匠も頷いて玄関の段差を降り、靴に足を入れた。
扉を開けて外に出ると、明るさに慣れた目に、夜の空気がどろどろと黒い幕となってまとわりついてきた。
古い家の並ぶ閑静な住宅街の一角にある集会所の敷地は広く、玄関から表の道路まで少し距離があった。
その間の砂利道を歩いてくる黒い人影に気づいた。
「どうかされましたか」
怪訝そうな表情が敷地の隅の街灯の明かりに照らし出される。鎌田さんが両手にお盆を抱えて立っていた。
ホッとして、「ええ、それが」と言いかけるのを師匠が制した。
「ちょっと訊きたいことがありますが、いいですか」
「え、ええ、はい」
鎌田さんは玄関の扉を開けてお盆を置いた。ラップに包まれたお握りが六つと惣菜らしいタッパーがのっていた。夜食を持ってきてくれたようだ。
「姿を見た、という人はいないんですね」
「え、ああ、噂ですか。そうですね、あんまり。声がすると。みんな」
「あなたは聞いたことが?」
「……気のせいかも知れませんが」
「もういいかい」
師匠の言葉に鎌田さんは肩をビクリとさせる。
やはり。
「噂では、返事をするとどうだとか、しないとどうだとか言っていましたが、実際に」
そこまで言った時、また聞こえた。
『もういいかい』という声が、どこからともなく、そしてどこへともなく。
だが、今度はその声と同時になにか別の気配が高まるのを感じた。それはほんのわずかな違和感だったが、僕の首筋をひやりと撫でて、師匠を一瞬で反応させた。
玄関から飛び出して走り出す。
集会所の壁伝いに左側へ回り込む。自転車が何台か置き捨てられている場所を膨らみながらかわし、玄関正面から見て敷地の右奥へと向かう。
敷地の端の煉瓦塀のあたりは砂利だったが、集会所の側の地面はコンクリで舗装されている。その壁際にプロパンガスのボンベが二基立てられている。小さな窓に見覚えがあった。頭の中で集会所の間取りを思い浮かべる。ちょうど台所の裏手だ。
師匠はその壁際の地面に両手をついて這いつくばる。這っている蟻を見つけようとするような格好だった。
しかしその目の焦点は遥か地面の下に向かっている。
「なにか、埋まっているな、ここに」
コンクリ舗装の地面を食い入るように見つめたまま、師匠は呟いた。僕は少し手前で立ち止まり固唾を飲んでその様子を眺める。
ようやく鎌田さんが追いついてきて、怯えたように「どうしましたか」と問いかけた。
師匠はその声が聞こえなかったかのようにひたすら地面を舐めるように見ていたが、やがて身体を起こし、「なにか、埋まっていますね、ここに」と言った。
僕はこちらの方角からなにか気配のようなものを感じ取っただけだったが、師匠は確実に場所まで特定したらしい。
「なにかと言いますと?」
「それが知りたいんですよ。この下はなんです? もしかして地下室かなにかがあるんじゃないですか」
鎌田さんは首を捻っていたが、そんなものはありませんと断言した。確かにそれもそうだろう。平屋のなんの変哲もない集会所に地下室など似つかわしくないし、中を探索した結果それらしき地下への出入り口はなかった。
小さな貯蔵庫の類もないということを付け加えられ、師匠は考え込む。
「じゃあ、浄化槽は?」
一瞬ハッとしたが、さっきトイレに行った時、普通に水洗式だったことを思い出す。いや、しかし水洗式でも下水ではなく浄化槽で汚物を溜めるということもあるのだろうか。
「浄化槽は……」
鎌田さんが答えようとした時に、表のほうから懐中電灯の光がゆらゆらと近づいてくるのが見えた。
「なんの騒ぎです」
近所の人だろうか。五十年配の痩せた男性が緊張したような面持ちでやってきた。後ろにはその奥さんらしい女性。
「ええと……」
鎌田さんがどう説明したものか迷っていると、かまわず師匠はその痩せた男に向かって「この下に浄化槽はありますか?」と訊いた。
男は怪訝な顔をしながらも、「ないよ」と即答した。「今は下水が通ったから」と続ける。
「だったら、下水が通る前は?」
「通る前?」
少し思い出すような表情を浮かべた後、男は表の方を指差した。
「浄化槽はあったけど、玄関の横だな」
そう言えばトイレは玄関から入ってすぐ左手にあった。浄化槽はその表側に埋まっていたのだろう。
師匠は考え込む。
ぶつぶつとなにか呟いている。
いつの間にか男の奥さんらしい女性が消えている。鎌田さんに向かってなにかジェスチャーをしていたので予感はあったが、しばらくすると数人の足音が聞こえてきた。
「この人が霊能者?」
そんな無遠慮な声が掛かった。小太りのおばさんが興味津々という感じに近寄ってくる。どうやら婦人会長の鎌田さんが独断でこっそり調査事務所に依頼したというわけでもないようだ。
師匠は露骨に嫌な顔をして、それでも増えた地元の人々に向かって再び問いかけた。
「この集会所の建て替えはいつの話ですか?」
鎌田さんにも訊いた質問だ。
何人かが顔を見合わせ、今年大学卒業のナントカ君が生まれた頃だという情報から、「二十二年前」という結論が出た。
「その建て替えの前から、気持ちの悪い声に関する噂はありましたか」
ざわざわする。
気味悪そうに、その中の一人が「あったと思う」と言った。
建て替えの前からあった?
では今の集会所の構造にこだわってはいけないということか。
「では建て替え前に、浄化槽はどこにありましたか」という師匠の問い掛けにはすぐに返答があった。
「トイレの位置は変わってないから、同じ玄関の横」
「だったら、そのさらに前でもいいですから、とにかくこの地下になにか埋まるような心当たりはありませんか」
ざわざわと相談に入る。
いつの間にかまた人が増えてきている。子どもの姿が表の方に見えたが、すぐに母親らしい女性に引っ張って行かれた。
なんだか大ごとになってきたな。
僕は師匠の後ろに控えたまま、困ったような興奮してきたような複雑な気持ちで事態を見守っていた。
何度かのやりとりの結果、数十年前にこの集会所が出来る前には、この敷地は近所の工務店の資材置き場に使われていたということが分かった。
その頃、工務店を手伝っていたという初老の男性がたまたまその中にいて、「地下になにか埋めるようなことはなかったと思う」と言った。
実直そうな物言いではっきりそう告げられると、なんだかもう手詰まりな感じがしてしまったが、次の師匠の問い掛けで空気が一変した。
「その資材置き場の頃に、気持ちの悪い声の噂はありませんでしたか」
初老の男性は、目を剥いて驚きの表情を浮かべた。そして今、重要な事実に気づいたように絶句した。
「……あった」
ええっ? と周囲からも驚きの声が上がる。
「いや、言われて思い出したんだが、確かにあった。そうだ。ヨシミツさんも聞いたと言って怖がってた」
本人も今の噂と若き日の体験談が結びつくことにはじめて思い至ったようで、頬が紅潮していた。
「どんな声を聞いたんです」と師匠が畳み掛ける。
初老の男性は、「いや、自分は聞いたわけじゃないが」ともぐもぐ言ったあと、「夜、子どもが遊んでいるような声がする」という怪談じみた話が従業員たちの間に広がっていたことを話した。
なんだこれは。集会所の建て替えどころの話じゃない。いったいどこまで遡るんだ?
話の行く末にドキドキしていると、師匠がさらに畳み掛ける。
「資材置き場の前は、ここにはなにが?」
この問いにはなかなか即答できる人が現れなかった。やがておずおずと六十歳くらいの女性が手を挙げて、「松原さんの地所だったはずです」と言った。
その言葉に、「そう言えば」という声があがる。だが、直接当時を知る人は誰もいなかった。かなり古い話なのだろう。
「こりゃあ、うちの年寄りを連れてこにゃあ」と言って妙に嬉しそうにこの場を離れる人がいた。
師匠はもう一度地面に這いつくばり、コンクリの地面をコンコンと叩いたり撫でたりしながらなにかを感じ取ろうとするように目を閉じたり開いたりを繰り返していた。
やがて八十歳は超えていると思われる女性が息子に連れられてやってきた。夜の九時を回ろうかという時間に急に外へ連れ出されたにも関わらず、泰然自若として足取りも落ち着き払っていた。
師匠は身体を起こし、そのおばあさんに向かって訊いた。
「ここには松原さんという方の家があったんですか」
「ええ、ええ、ございました」
「戦前ですか」
「ええ、日中戦争の前に家を引き払いまして一家揃って隣町へ引っ越されました」
「ではまだ松原さんがここにおられた頃に、家を訪ねられたことは?」
おばあさんの丁寧な口調に自然と師匠の口調も改まっている。
「ございました。私と一つ違いのやよいさんというお姉さんがおりまして、よく一緒に遊んでおりましたので」
「その頃、今のこのあたりは松原家でいうとなにがあった場所でしょうか」
この問いには答えられず、小首を傾げた。
「地下室、もしくは防空壕のようなものは?」
続いての問いにも記憶が定かでないらしく、かぶりを振るだけだった。
「では……」
師匠が一瞬、舌なめずりをしたような気がした。
「このあたりに浄化槽、いや、便槽はありませんでしたか?」
おばあさんは、あ、という顔をした。
「当時はもちろんボットン便所でしたが、確か玄関からこちらに向かったところにあったような気がします」
「ここが大事なところなんですが、どうでしょう。その家で、誰かいなくなった人はいませんか?」
いなくなった?
最初は「亡くなった人はいませんか?」と訊いたのだと思った。しかし師匠は確かに「いなくなった人はいませんか?」と訊いたのだった。
行方不明になった人ということか。
おばあさんは、記憶を辿るように伏目がちに小さく頷いていたが、やがてほっそりした声で「ちえさん」と呟いた。
「やよいさんには、二つか三つ年下の妹さんがおりました。今はなんと申すのでしょうか。その……知恵遅れの子でした。いつもやよいさんの後ろをついてまわって、おねえちゃんおねえちゃんと、傍から見てもそれはそれは懐いておりました。
やよいさんも知恵遅れの妹を心配して、あれこれと世話をやいていたのを覚えております」
「いなくなったのは?」
「さあ、それが……」
おばあさんは困ったような顔をして、懸命に記憶を呼び覚まそうとしていたがどうやらはっきりと分からないらしかった。
分かったことと言えば、その松原ちえという女の子が恐らく十歳を過ぎた頃、ある日急に姿が見えなくなったということだった。
「どこかにもらわれて行ったか、どうかしたのだと思うのですが」
子ども心にも大した事件ではなかったということか。それとも姉のやよいさんと仲の良かった娘からすれば、その姉にべったりの妹はむしろお邪魔虫であり、ある日急にいなくなっても心配するようなことはなかったのだろうか。
「松原ちえ」
師匠はゆっくりと呟いてもう一度地面に這いつくばった。
コンクリに額をぴったりとつけて、目を閉じる。
「ちえ」
もう一度そう呟く。その瞬間、僕にも分かった。さっき、玄関で『もういいかい』と聞こえた時にこちらの方角から感じた気配のようなものが、足元からじわじわと湧き上がってくるのを。
足先が重くなっていく。ずぶずぶとコンクリの中に靴がめり込んで行くような錯覚を覚える。
「チャンネルが、合った」
ぼそりと師匠がそう言う。そして「おまえは?」と訊く。僕はかぶりを振る。師匠が言うのは、僕が今感じている程度の感覚ではないのだろうから。
這ったまま師匠の左手が差し出される。僕はそれを躊躇いがちに握る。
その瞬間、自分の視界に被るように別の視界が開けた。ノイズのようなものが走り、不鮮明だが、笑っている女の子が見えた。十代前半だろうか。着物を着ている。
その子が木の幹に向かって顔を伏せた。
なにか言っている。
数だ。数をかぞえている。
視界が動いた。木と女の子に背を向けて、走り出す。途中で茂みを掻き分けようとしていたが、諦めてまた走る。呼ぶ声。返事をする。家が映る。古い木造家屋。その縁側を回り込む。隣の家の垣根。そのそばに井戸。小さな離れのような建物が見え、木戸が風で揺れている。
また呼ぶ声。返事をする。視界がしゃがむ。木戸の傍に頑丈そうな板が地面に埋まっている。それを苦労しながら取り外す。中を覗き込む。暗い。
視界が振り返る。家と垣根の間、その向こうにはまだ人影は見えない。
地面に開いた穴に視界は滑り落ちていく。
臭気。
腰まで汚泥のようなものに浸かる。暗い。上を見ると、丸い穴から空が覗いている。
呼ぶ声。今度は小さな声で返事。見つからないように。
時間が過ぎる。
探す声。
やがて遠ざかる。
さらに時間が過ぎる。なんだか楽しい気分。
空から声。なんだ、危ないな。開いているじゃないか。
丸い穴から見下ろす男の顔。驚く。眉間に皺。
視界は半月になる。笑いかけているのだ。
ますます険しくなる男の顔。震える頬。短い時間の間に、複雑な変化をして、そして穴から離れる。
次に丸い空の穴から男が見えた時、その手には大きな石が握られていた。
打ち下ろされる手。
衝撃。赤く染まる視界。暗転……
ハッと我に返った。
師匠は左手を引きながら、見えたか、と訊いてくる。こんなことができるのは、最近知ったことだった。
僕よりも師匠の方が遥かに霊感が強く、師匠に見えて僕には見えないということが多々あったのだが、そんな時に師匠の身体のどこかに触れていると、どういう効果なのかほぼ同じレベルで見えてしまうことがあったのだ。
交霊術などで、参加者同士が手を繋ぐのと同じことなのだろうか。
周囲にざわざわした空気が戻ってくる。僕らを奇異の目で見つめる人々に師匠は向き直った。
「この下に、松原ちえさんが埋まっています」
剣呑な言葉に驚きの声が上がれば、「やっぱり」というような声も上がった。そして半分以上は疑わしげな声。
姉とかくれんぼをして遊んでいる最中に、便槽に隠れたちえさんと、偶然それを見つけてしまった父親。そしてどういう心理が働いたのか、衝動的に娘を石で打って殺してしまう。
それからは恐らくだが、便槽をコンクリかなにかでそのまま埋め立て、ちえさんはいなくなってしまったことになった。
訥々と語った師匠に、頷く人もいれば胡散臭そうな顔を隠さない人もいる。しかし当時の松原ちえを知るおばあちゃんは涙を浮かべて言葉を発せない状態になっていた。
「じゃあ、集会所で聞こえた気持ちの悪い声は、そのちえさんが?」
誰かが言った言葉に師匠はかぶりを振った。
「私たちが聞いたのは、もういいかい、という言葉でした。ちえさんは隠れる側でした。だから、ちえさんなら『まあだだよ』もしくは『もういいよ』と返すはずです」
そうだ。もういいかい、は探す側の言葉。探しているのは誰だ?
「やよいさんが……」
おばあさんがようやくそれだけを言った。ハンカチで涙を止めようと目元を赤くしている。
松原やよいが、ある日かくれんぼの最中に急にいなくなった妹を探して今も彷徨っているというのか。その魂だか思念だかで。
胡散臭げだった人々も、気味の悪い怪談から人情話になりそうなせいか、納得したような雰囲気になってきた。確かに現にそんな気持ちの悪い声の噂が広がっている以上、これは落とし処としては取っ付き易いのだろう。
しかし僕は、最初に師匠が言っていた「言葉は発していたが、人間的なものを感じなかった」という言葉が引っ掛かっていた。そこまで言うのであれば、単純な霊などではないはずだ。
俄然井戸端会議になってしまった場所で、それぞれの雑談の波を越えて師匠はまだ涙を拭いているおばあさんに話しかけた。
「すみません。あと一つだけ。隣町へ引っ越した後、やよいさんはどうされました」
「……結婚されてどこかへ行かれていたはずですが、二十年くらい前に旦那様と死に別れて隣町へ戻ってらっしゃいました。
その後は私ともまた往来がございまして親しくしておりましたが、確かあれは五、六年前だったかと思いますが、胸を悪くして入院先の病院で亡くなりました」
「五、六年前」
師匠はそう呟くと、違う、というように首を振った。
「オッカムの剃刀だ」と僕に耳打ちする。
「いいか。声が聞こえるという噂は、やよいさんの存命中からあった。では生霊か? 生霊になってまで昔いなくなった妹を探していたというのであれば美談だが、本人は隣町に住んでいるんだ。
生身で来ればいいんだから、わざわざ生霊になる必要もない。では昔妹がいなくなったことを普段は忘れているかほとんど認識していないとして、夜眠っている時にだけそれを思い出し、魂が肉体から離れて隣町から探しに来ているのか。
そして五、六年前にやよいさんが死んだ後も、今度は死霊となって以前と変わらない現れ方で妹を探し続けてる?」
師匠の囁きを聞いているとなんだかややこしくなってきた。
「生霊から死霊へそのまま引き継がれる怪異なんて聞いたことがない。それ以外にもめんどくさい前提が多すぎる。オッカムの剃刀というのは哲学だか論理学だかの言葉でな、ある現象を同じ程度にうまく説明する仮説があるなら、
より単純な方がより良い仮説である、っていう金言だ。私なら、こう仮説するね。『もういいかい』と言って探しに来ているのは松原やよいではない」
それはただの反論で仮説ではないでしょう。
そう返そうと思ったが、ぞくりとする悪寒に口をつぐんだ。
では一体なにが松原ちえを探して集会所を彷徨っているというのか。
僕らを無視してざわざわと思い思いの会話をしている人々の中で、師匠はゆっくりと考えをまとめるようとするように呟く。
「子どもなんだ。かくれんぼをしていた子ども。探しにくるはずの鬼。なかなか見つけてくれない。わたしはここにいるのに。ここに。この地面に下に。そうか。遊び相手だ。遊び相手がいない子どもはどうする? 孤独の中で架空の遊び相手を作る。
イマジナリー・コンパニオンだ」
師匠の独り言を聞いて僕も思い当たった。イマジナリー・コンパニオンは幼児期に特有の空想上の友だちのことだ。
しかし。
本来それは本人にしか見えないし、知覚できないもののはずだ。
「いや、触媒があれば、混線するように他者が知覚することもありうる」
経験があるのか、師匠はそう断言する。
「触媒って……」
問い掛ける僕に、師匠は地面を指さす。「本人だ」
松原ちえの霊魂だか、残留思念だかを通して僕らにも彼女の架空の遊び相手の声が聞こえるというのか。この世にはいない、架空のかくれんぼの鬼の声が。
一体それはどんな姿をしているのだろう。
想像しかけた。
師匠の表情が変わる。「しまった」と口元が動く。
『もういいかい』
聞こえた。確かに聞こえた。またあの声が。
周囲を見たが、反応しているのは僕と師匠だけだった。みんなお喋りに夢中だ。しかし異常なものはなにも見つからない。
夜空や集会所の壁、台所の窓、プロパンのボンベ、そして地面を順番に見回すがなにも見つからない。
しかしゾクゾクと背筋の毛が逆立つ。なんだ。異様な気配。どこからともなく異様な気配を感じる。
まあだだよ、と言ってしまいたくなるのを必死で堪える。
師匠は脂汗を浮かべて目を剥いたまま俯いている。息が荒い。
「いま、わたしに、触るなよ」
それだけをようやく搾り出すように呟く。
口元が声にならない言葉を紡いでいた。僕はそれを読み取る。チャンネルが、あっちまった。と、そう言っている。
師匠には見えている。
胸が脈打つ。想像しまいとする。なにを想像したくないのか。もちろん、いないはずのかくれんぼの鬼。十歳そこそこの、知的障害を持つ少女が、父親に石で打ち殺された少女が、
そのまま地面の底に埋められた少女が、ずっと誰かがみつけてくれるのを待ち続けるその少女が、空想で創りあげた鬼。夜な夜な集会所を彷徨うなにか。
ああ、想像しまいとして、想像してしまう。思考が止まらない。
やがて、数分にも、数時間にも思える時間が過ぎ去り、硬直した肩を師匠が叩いた。
「もう消えた」
かくれんぼの鬼をやりすごすには、じっと息を殺して耐えるしかないということを今さら思い出す。
師匠の顔色は蒼白になっている。一体どんな恐ろしいものを見たのか。
顔を上げた師匠は慌しく、そこに集まった人々に向かって「今日はもう解散してください」と言った。
そして明日以降、なるべく早くこの下を掘り起こして遺体を見つけ、丁寧に弔ってあげてくださいと。
集まった人々がガヤガヤとそれでもなんとか全員帰ってくれた頃には夜の十時を過ぎていた。最後に残った鎌田さんに師匠は言った。
「もしこの下から遺体が出てきても、警察には私のことは言わないで下さい。地区で井戸を掘ろうとしたとか、なにか適当なことを言って上手く誤魔化して下さい」
「はあ」
反応が鈍い鎌田さんに念押しをする。大事な所だ。警察に目をつけられるとやりにくくてかなわない。今回のケースは古い話なのでまだいいが、彼らは犯人しか知りえないことを知っている者はとりあえず犯人と見做して対応するものだから。
「それから……」
師匠は少し言いよどんでから、「できたら」と続けた。
「みいつけた、と言ってあげて下さい」
鍵を返しながら、軽く頭を下げた。
大学四回生の冬だった。俺は仲間三人と少し気の早い卒業旅行をした。
交代しながら車を運転し、北陸まわりで関東へと入った。宿の手配もない行き当たりばったりの旅で、ビジネスホテルに泊まれれば良い方。どこも満室で、しかたなく車の中で寒さに震えながら朝焼けを見たこともあった。
目的はない。ただ学生時代特有の怠惰で無為な時間の中に、もう少し全身を沈めていたかった。みんな多かれ少なかれそんな感傷に浸っていたのだと思う。
ある街に着いた時、俺はふと思いついた。知り合いがこのあたりに住んでいたはずだ。
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携帯電話で連絡をしてみると、懐かしがってくれた。一時間くらいあとで落ち合うことにする。
並木道がきれいに伸びている新興住宅地の中を通り、路肩に下ろしてもらい「終わったら連絡くれ」と言って去っていく仲間の車を見送る。
都心から離れるとあの、人であふれた息の詰まるような町並みよりも、空間的にずいぶん余裕がでてくるようだった。
カラフルな煉瓦で舗装された道を自然と浮き足立つステップで進み、大きなマンションが群れるように立ち並ぶ方へ目をやる。
マンションというより、団地か。そこへ向かう道は軽く傾斜し、丘になっている。
その団地の入り口に公園があった。広い敷地には、わずかばかりの遊具とたくさんの緑、そして住民が憩うためのベンチがいくつかあった。
そこにその人は座っている。
小春日和の温かい日差しに目を細めながら、こちらに手を振る。
俺は照れ隠しに大げさな動作で手を振り返し、ことさらゆっくりと歩いていった。
「え〜と、元気でしたか。……多田さん」
なんだか面映い。ここ数日、砕けた仲間同士の掛け合いしかしてなかったので、口が滑らかに動かない。
元気だとその人は言った。
以前より少しふっくらしたようだ。髪の毛も伸ばしている。なにより、あの真摯で鋭かった眼差しが柔らかくなっている気がする。
ベンチの隣に座って近況を報告した。
昼下がりの公園は自分たちのほか、時おり主婦らしき若い女性が通りがかっては去っていくだけだった。
「そうか、おまえも卒業か」
感慨深げな声に、うしろめたい気持ちで頷いた。卒業を待つ仲間たちと違い、俺だけは単位が足りずに留年することが決まっていたからだった。
旅行なんてしている場合ではない気がするが、捨て鉢になっていたというわけでもない。ただそのころの俺は、すべてなるようにしかならない、という達観めいた平静の境地にあったような気がする。
けれど格好悪いのであえてその事実を告げることはなかった。
風の凪いだ陽だまりの中、二人でいろいろな話をした。たかだか二、三年前の過去が遥か遠い昔の出来事のように色あせて、それでも仄かな輝きとともに蘇ってくる。
「智恵も結婚したんだってな」
「ええ。二次会に呼ばれましたけど、あの人も変わりませんねえ」
相手はどんなやつだと言うので、「やっぱり、ああいうタイプの人でした」と答えると「なるほど」と笑った。
チリ紙交換の車がどこか遠くを走っている音がする。
顔を上げ、ハッとした表情を見せて、なにか思い出そうという風情だったが、すぐに「まだいいか」とつぶやいた。その横で俺は胸に小さな針が刺さったような微かな痛みを覚える。顔を伏せ、その痛みの正体はなんだろうと自問する。
「そういえば、この団地にも七不思議があってな」
ふいにその人は切り出した。
「え。学校によくあるあれですか」
「ああ。まあ小中学生も多いし、同じノリで生まれたんだろう」
そう言って順番に教えてくれた。
団地への上り坂を時速百キロで駆け上るババア。
夜中C棟の前のケヤキの木の枝にぶらさがる首。
夕方E棟の壁に映った自分の影が勝手に動く。
団地内の公衆電話BOXにお化けからの電話が掛かってくる。
…………
「わりと、よく聞くような話ですね」
「そうだな。でもこの団地の七不思議は子どもだけじゃなくて、主婦連中にも信じている人たちが多いみたいだ。時どき噂が聞こえてくるよ。手のかかる小さい子どもを持ち、狭い空間に押し込められた大人たちにも心の病巣があるということかな」
あそこを見てみな。
指さす先に目をやると、ブランコのそばに小ぶりなジャングルジムがぽつんと建っている。
「あのジャングルジムに、いつの間にか小さい子どもが入って遊んでるっていう話もある。見通しがいいし、あんな細いパイプの骨組みのどこかに隠れられるはずもないのに、誰もいなかったはずのジャングルジムの中に気がつくと男の子がひとり入っているんだ。
パイプを上り下りしながら内側を這いまわってるらしい。見てしまっても気がつかないふりをしていると、またいつの間にかいなくなってるんだと」
「まるで妖怪みたいですね。怪異に出会ってしまった時の対処法とセットで存在する噂だなんて」
「確かにな」
二人ともジャングルジムを見ていた。男の子の姿はない。
あの遊具があんなに小さかっただろうかと思う。自分にもあんな狭いパイプの中を這い回って遊んだ時代があったということが、なんだか不思議だ。
「子どもと言えば、こんな話もある。ベビーカーを押して母親が団地の中を散歩していると、周りに誰もいないのに、声が聞こえるんだ。キョロキョロしているとまた聞こえる。
囁くような小さな声。ベビーカーの中からだ。まだ喋れなかったのに、とうとう赤ん坊が喋れるようになったんだと喜んで母親がベビーカーの中を覗き込む。なのに赤ん坊はぐっすり眠っている…… いったいなにが赤ん坊に囁いていたのか」
「それは」
「なんだ」
怖い話ですね、と素直に言えなかった。なにか合理的な解釈ができないかと考えたが、情報が少なすぎた。
仕方なく、「ノイローゼじゃないですか。育児ノイローゼ」と言うと、「かもな」と頷いた。
そしてそのまま少し、遠い目をした。
ふいにカチャリという音が聞こえる。
地面に鍵が落ちている。ジーンズのポケットから落ちたらしい。屈んで手を伸ばし、拾ってあげる。
「すまんな、こんな状態で」
その人は窮屈そうに手のひらを広げ、受け取った。渡すとき、指先が触れてなんだか照れたような気分になる。
照れ隠しにそのまま指を折ってみせる。
「むっつですね。ここまでで」
「うん? ああ、七不思議か。そうだな。最後のひとつは面白いぞ」
面白い? それはオチ的なものだということだろうか。
「面白いというか、怪談として珍しいというのかな。こんな話だ」
そうして丁寧に話してくれた。
この団地には「なぞなぞおじさん」という怪談がある。
A棟の702号室にいるおじさんらしい。
どうしてなぞなぞおじさんなのかというと、読んで字のごとくなぞなぞが大好きなおじさんだからだ。
噂を聞いた子どもが702号室のドアの前に立って、コンコンとノックしたあとドアについている郵便受けをカタリと内側に押してから、部屋の中に向かって話しかける。
「おじさん、おじさん、クジラよりも大きくて、メダカよりも小さい生き物な〜んだ?」
おじさんはなぞなぞが大好きだけど、なかなか答えがわからない。ずっとずっと考えている。ドアの前で待っていても返事はない。
仕方がないので引き返して自分の家に帰る。
答えはイルカ。そんなのイルカ! だからイルカ。こんなに簡単なのに、おじさんは分からないのだ。
子どもの住む団地の一室で、家族は寝静まり自分も部屋でもう寝ようとしているころ、玄関のドアをコンコンと叩く音が聞こえる。
家族が誰も起きないので、ベッドから這い出し、恐る恐る真っ暗な玄関に向かうと、コンコンとドアを叩く音が止まる。
カタリとドアの郵便受けが開く音がする。
「クジラよりも大きくて、メダカよりも小さい生き物な〜んだ?」
郵便受けから低い大人の声。その声は続ける。
「答えはね、泥。泥だよ」
子どもはどうしようもなく怖くなる。なぞなぞおじさんがやって来たのだ。こんな時間になって。
でもイルカなのに。答えはそんなのイルカ! なのに自分の声が出せない。
「泥だよ」
もう一度小さくつぶやいて、カタリと郵便受けが戻る。
ドアの向こうから気配が消える。おじさんが帰ったのだ。『泥』という意味のわからない答えを残して。
そんな噂。
団地の子どもたちはその噂を聞いて、面白半分に次々と702号室の郵便受けになぞなぞを放り込む。
「お父さんが嫌いなくだものはな〜んだ?」
「公園で静かにそうっと乗るものな〜んだ?」
「世界の真ん中にいる虫はな〜んだ?」
……
答えはパパイヤ。パパが嫌だから。
答えはシーソー。シーッとソーッと乗るから。
答えは蚊。せ・か・いの真ん中は「か」だから。
けれどなぞなぞおじさんはそんな簡単ななぞなぞが分からない。
夜中まで考えて、家族の寝静まる子どもの家にやってくるのだ。郵便受けから低い声で。
「お父さんが嫌いなくだものはね。歯の生えた梨」
「公園で静かにそうっと乗るものはね。刳り貫かれた楡の木」
「世界の真ん中にいる虫はね。鼻歩き」
……
その気持ちの悪い答えを聞いても、絶対に「違う」と言ってはいけない。
「違う」と言っても別のもっと気持ち悪い答えを低い声で囁いてくる。それを繰り返していると、自分でも本当の答えが分からなくなってくるのだ。
答えが分かるまでなぞなぞおじさんは帰らない。なのに答えが消えてしまう……
「という話だ」
どうだ? というように見つめられる。
「それは」
確かに怖いが、まるで変質者だ。
「その702号室は無人なんですか」
「いや、おじさんが住んでるよ」
「え、じゃあ実在の人なんですか」
「そう。普通のおじさん。もちろんお化けなんかじゃない。団地の集会にも顔を出すし、近所づきあいも普通にしてる。むしろどうしてそんな噂が生まれたのか本人が一番首をかしげている」
「本人にも心あたりがないんですか」
「らしいよ。ただ、子ども好きでな。よく近所の子どもになぞなぞを出していたんだ。答えを当てられたら飴とかガムをあげていた。逆に子どもが出すなぞなぞに答えられなかったりしても、そういうお菓子を巻き上げられたりね」
それを聞きながら、俺はやっぱりそのおじさんがやってることなんじゃないかと感じた。ただ誇張されているだけで。
「奥さんがいるんだけど、ちょっと前まで共働きでな。昼間はたいていその家は留守なんだ。七不思議の噂ではその昼間に702号室に行くことになっている。それで郵便受けから部屋の中になぞなぞを一方的に話す。
肝心なことはそのなぞなぞおじさんは答えが分からなくて返事がない、ということがパターンになっていることだ。当たり前だな、誰も部屋の中にはいないんだから。でも夜にそのなぞなぞの答えを話しにやってくる、というところが変だろう。
なぜその誰も聞いていないはずのなぞなぞを知っているのか」
そうか。子どもにとっては昼間に誰もいない家だからこそ、ノックをしてドアの郵便受けからなぞなぞを投げ掛けるなんていうイタズラができるのだ。なのに、いないはずの誰かにそのなぞなぞを聞かれている。
これはいったいどういうことだろう。
「答えがないから七不思議なんだろう。その702号室のおじさんは変な噂が立ったせいで奥さんに怒られて、今なぞなぞ禁止になってるよ。というか、近所の子どもと遊ぶの自体自粛中」
子どもが好きな人だろうに、少しかわいそうな気がするが世間体というものがある。ほとぼりがさめるまで仕方がないのかも知れない。
ほとぼり?
ふと思う。そんなもの、さめるのだろうか。一度七不思議になったものが、そう簡単に。
なにかきっかけになった事件や事故があったとしても、一度そういう怪談になってしまったものは、延々と子どもたちのコミュニティーの中で一人歩きをし、生きながらえていくのではないだろうか。
「いや、それがな。最近奥さんが仕事を休んでて家にいるようになったもんだから、子どもが昼間来ても郵便受けからなぞなぞを出した時点で追い返されてる。奥さんは怖い人だから、いずれ子どもたちも懲りるだろう」
そうか。それなら確かにほとぼりはさめるかも知れない。
七不思議が消えるのか。
笑ってしまった。
「可笑しいか」
頷く。
「でも、直接本人から聞いた話で、笑えないのがあるんだ」
「本人というは、そのおじさんですか」
「そう。まだ共働きのころ、たまたま仕事を休んでて昼間一人でいたらしいんだ。密かに楽しみにしてたのは、噂につられた子どもが実際にドアをノックしてなぞなぞを出してくるんじゃないかってこと。
もしそんなことがあったら、どうやって脅かしてやろうかとニヤニヤしてたらしい」
「全然懲りてないじゃないですか」
でも子どもがやってくる気配はない。それはそうだ。普段留守をしている平日の昼間なら、子どもたちだって学校があるはずだ。たまたま休校だとか、水曜日で午後は授業がないとか、そういう日じゃないと。
子どもが来そうになかったので、近くのコンビニに買い物をしに行った。帰って来て702号室のドアの前に立った時、思いついてノックをしてみた。当然誰もいないから返事はない。ドアの郵便受けを親指で押し込んでみる。数センチ幅の隙間ができる。
屈んだまま子どもの真似をしてなぞなぞを出してみた。
『おじさん、おじさん、松の木の下ではお喋りしたかったのに、桜の木の下まで歩いたら綾取りをしたくなりました。な〜ぜだ?』
……返事はない。こんな馬鹿なことをしているのが恥ずかしくなって廊下をキョロキョロしてしまう。子どもたちはこれのどこを面白がっているんだろうと思いながらドアを開けて部屋に入る。中に誰かいたら嫌だなと思ったけど、もちろん誰もいない。
ホッとしてコンビニで買ったものを袋から出して冷蔵庫にしまっていると、玄関のドアをノックする音が聞こえる。はあい、と返事をして冷蔵庫を後ろ足で閉め、はい、はい、と言いながら玄関に行き、サンダルを引っ掛けてドアの鍵を外そうと手を伸ばす。
すると視線の下、郵便受けがカタリと鳴る。外の音がほんの少し流れ込んでくる。ざわざわざわざわ……
あ、これは、と思った瞬間、声が聞こえる。
『おじさん、おじさん、松の木の下ではお喋りしたかったのに、桜の木の下まで歩いたら綾取りをしたくなりました。な〜ぜだ?』
誰の声だ。鍵を外そうとした手が空中で止まる。
あれ? いつの間に夜になったんだろう。暗い。玄関が暗い。電気。電気をつけないと。
声は続ける。
『答えはね……』
木が変わったから。答えは気(木)が変わったからだ。心臓が激しく動いている。その、どこかで聞いたことのあるような、低い、男の声がささやくように言う。
『答えはね、桜の木の下には、死体が埋まっているから』
……ドカン、とドアを蹴った。声は黙る。すぐにドアの鍵を外し、開け放つ。光が溢れる。さっきまでまるで深夜のように暗かったのが嘘みたいに。外には誰もいない。誰かが走り去る気配もない。
なんだ今のは? 足がガクガクする。自分の声のようだった。さっきまでドアの向こうに自分が立っていたのか? なにがなんだか分からなくて、ひたすら震えていた。
って、いう話。
とおどけてみせるのを、俺は久しぶりにゾクゾクした気持ちで見つめていた。
「怖いですね」
完全に怪談だ。なぞなぞおじさんという七不思議に出てくる存在が、自分自身とは別個のもののように立ち現れている。まるで……
そこまで考えたとき、ハッとして横に座る人の顔を見た。
この人の周囲には、「それ」が多すぎる。
かつての自分の体験を記憶の底から呼び覚まそうとして、一瞬意識がこの場所から離れた。
その時だ。
俺の耳は子どもの声を拾った。ぐずるような声。近い。
ゾクリとしてジャングルジムに視線をやる。その中にさっきまでいなかったはずの子どもの姿を見てしまう気がして顔が強張る。
一秒、二秒、三秒……
俺のその様子を見てその人も緊張したようだったが、やがて俺がなにを考えたか分かったようで苦笑する。
ああ、そうか。
俺はあえて見えない振りをしていたのだ。冷静になれば、なにも怪談話などではないのに。
照れくさくなり、「ちょっとトイレに」と言って立ち上がる。
「あっちにある」
指で示された方へ歩くことしばし。小ぎれいな公衆トイレを見つけて用を足し、俺はその場で考えた。
行ってみるか。
トイレの前にはC棟という刻印がされたクリーム色の壁がある。A棟は近い。挙動不審に見られない程度にキョロキョロしながら何色かに色分けされた舗装レンガの上を歩き、Aの刻印のある巨大な建物の前に立つ。
玄関でのセキュリティーはなかったので堂々と正面から入り込み、エレベーターに乗る。「7」を押すと、途中で止まることもなく目的地で扉が開いた。
平日の昼ひなか。太陽の角度の関係か、妙にひんやりした空気が漂っている廊下に出る。
静かだ。ここまで住民の誰とも出会わなかった。
702号室は端の方だ。壁と良く似た色のドアが並んでいるのを横目で見ながら歩き、やがて702の表示を見つける。
ドアの両脇の壁に、自分で取り付けたのか、プラスチックの板があった。
『こどもたちのために禁煙を』
『喫煙は決められた場所で』
そんな活字が黒く刻まれている。
なぞなぞおじさんはどうやら、禁煙運動だか嫌煙運動だかをこの団地で推進している人らしい。団地の集会では、お母さんたちからは支持され、お父さん連中からは煙たがられているに違いない。
俺は小さく笑ってドアをノックする。
しばらく待っても反応はない。やはり仕事に出ているらしい。
ドアノブの横、下目の位置に横長の郵便受けの口がある。色は銀色。軽く屈んで右手の親指で押してみる。覗き込んでも部屋の中は見えない。ドアの内側に郵便物を受けるカバーがあるのだ。
少し大きめの声で言う。
「おじさん、おじさん、ヘビースモーカーがある朝急に禁煙したのはな〜ぜだ?」
篭った声がそれでもカバーの向こう側に漏れて行くのが分かる。
けれど室内から人の気配はなく、なぞなぞに答える声もなかった。
しばらく待つ。静寂が耳に響く。耳鳴りがやって来そうで身構えているが、いつまで経ってもそれは来なかった。
カタリと郵便受けから指を離し、702号室を後にする。
一度廊下で振り返ったが、ほんの少しドアが開きかけている、なんてことはなかった。
A棟の玄関に降り立ち、出来るだけ遠回りして戻ろうと、来た方向の逆へ足を向ける。
なんとか迷わずに元の公園に戻ってくると、その人は逆方向から来た俺に、あれ? という表情をして、そしてすぐにニコリと笑った。
「気をつかわせたな」
ちょうど胸元をしまうところだった。
胸に抱いた赤ん坊はさっきまでぐずりかけていたのに、今は満足そうな顔で目を閉じている。赤ん坊の口をハンカチで軽く拭き、その人は俺に笑いかける。
「家に寄って行かないか」
その提案に一瞬迷ってから、遠慮をした。「友だちがもう迎えに来ますから」
「そうか、残念だな」とさほど残念そうでもなく言うと、その人は赤ん坊に向かって、「あぶぶ」と口をすぼめて見せた。
俺は、もう行って来ましたよ、と口の中で呟く。そうしながら、三桁の番号が印字された鍵があのタイミングでポケットから落ちたのは偶然なのかどうか考えている。
やがてその夢想も曖昧なままどこかに消え、ただ冬の合間に差し込まれた柔らかい小春日和の公園に立っている。
小春日和にあたる季節を、アメリカではインディアン・サマーと言うらしい。寒さの本格的な到来の前にぽっかりと訪れる、冬に向けた準備のための暖かな時間。春でも大げさだと思うが、夏とは凄い例えだ。
その時、ふいに思ったのだ。
数年前、人のいないプールで始まった自分の夏が、終わってしまったのはいつだろうかと。
思えば、ずっと夏だった。秋も、冬も、春も、またやって来た夏も。見たもの聞いたもの、やることなすこと、なにもかも無茶苦茶で、無茶苦茶なままずっと夏だった気がする。山の中に身を伏せて虫の音を聞いた秋も。寒さに震えた冬の夜の海辺でさえ。
やがて、別の世界に通じる扉がひとつ、ひとつと閉じて行き、気がつけば長かった夏も終わっていた。
『夏への扉』という小説がある。
その中でピートという猫は、十一もある家の外へ通じる扉を飼い主である主人公に次々と開けさせる。扉の向こうが冬であることに不満で、夏の世界へ通じる扉を探して主人公を急かすのだ。
何度寒さに失望しても、少なくともどれかひとつは夏への扉であると疑わずに。
俺は失望はしていない。そんな別の世界へ通じる扉などない方がいいということはよく分かっているからだ。
ただそのころ垣間見た、ありえない世界の景色に今さら感傷を覚えることはある。そんな傷が、胸に微かな痛みをもたらすのだろうか。
「じゃあ、さようなら」
手を振って公園を出る。
その人はベンチから立ち上がり、こちらを見送っている。
これからその人が帰る扉の向こうには、ありふれた生活があるのだろう。七不思議の世界などではなく。
俺はもう一度さようならと呟いて、歩きながらゆっくりと背を向けた。
小春日和のベンチと、ずっと抱いていた遠く仄かな輝きと、そしてかつて愛した夏への扉に。